人々は、日の昇る頃に起き出し、出仕するまでの時間を占いなどして過ごす。和仁は謹慎中なので、これまでやってきた仕事を続けることができず、更に体調も芳しくないため寝込むことが多いので、時刻の感覚が曖昧であり、起床時間もまちまちだった。目覚めたのが、たまたま日照前だと都合がいい。日頃から、自分を責めに誰かが訪ねてくるのではないか、庭先に何か投げ込まれるのではないかなどと怯えている和仁にとって、人の気配のない時間帯は、もっとも心休まるひとときだった。
 この暗がりでは、時朝も主人の起床には気づかず、まだ夢の中にいるだろう。そのことに安堵を覚える。後見人である時朝はいつでも主に寄り添い、身の回りの世話をしてくれるが、それにすら抵抗を感じるときがあった。献身的な彼は、和仁を生かそうとしている。時朝という男の思慮深い性格を考えれば、けっして強要のつもりでそうしているわけではないだろうが、心身共に衰弱している和仁にとって、与えられる優しさは時に苦痛にもなっていた。自分のような人間など、さっさと見限ればいいものを、哀れみか同情かは分からないが、時朝は常に和仁のそばにいた。
 和仁は、寝床のそばの灯台ひとつに火をともし、静かに縁側に出て、まだ薄暗い空を眺めた。月と星の瞬きは、雲に覆われてしまって見ることができなかった。この様子では、明るみのもとで人々が活動している頃には、雨が降っているかもしれない。
 目の前に、口から立ちのぼった白い息が現れ、空気に吸い込まれるように消えていく。それは自分が呼吸している限り現れ、冷えて、消えた。
 和仁は、視界の奥にある闇を見つめた。

 呼吸をしている。
 自分は、生きている。
 他の人々が共有するのと同じ時を過ごしている。
 それでいいのだろうか。
 これでいいのだろうか。
 この先にあるものは、いったいなんだというのだろう。
 いつか夢見た輝かしい未来が来ることは、二度とない。
 自分は、自分が無知であることを知ってしまった。
 それは決して無価値なことではなかったが、だからといって喜べることでもなかった。
 確かに、時朝や花梨が言うように、人は、和仁が思うほど和仁を憎んでいないのかもしれない。少し考え方を変えれば、もっと世界に対して積極的になれるのかもしれない。
 けれど、和仁の中に巣くい続けている倦怠と絶望は、もはや己の出生や犯した罪のことからは逸脱した原因から生まれているような気がしていた。「あなたは悪くない」と、たとえ誰かから庇われたとしても、それが心に響かないのは、和仁自身にもう生きる気力がないためであって、今はただ単純に「早く楽になりたい」と願っているだけなのかもしれない。
 花梨も、和仁の心を分かっているのだろう。だから、静かに嘆いている。言葉が届かないもどかしさに苦しみながら。和仁に関われば関わるほど、その苦悩は増していくというのに、彼女は頑なに和仁から離れようとしない。それは孤独な人間にとって喜びであると同時に、心を切なく軋ませる悲しみに違いなかった。

「和仁さま」

 時朝は、和仁を“宮さま”とは呼ばなくなった。和仁が、それを拒否したのだ。
 お加減でも?と尋ねてくる時朝に振り返らず、和仁は、闇を見つめ続けた。

「時朝」

 まだ眠っていてほしかったのに。

「私は、疲れたのだ」

 呟きは、自身が思っていたより厳かで、はっきりしていた。

「この先に、果たして何があるというのだろう……」

 その自問は、己と向き合い、立ち向かうことから逃げていることに他ならない。逃避という望みを抱くことに罪悪を感じながらも、和仁は、目の前に広がる闇だけが自分の未来の末路であるようにしか思えなくなっていた。
 長らくの寂が続いたのち、時朝が、口を開いた。

「その答えは、神子殿が教えてくれるのだろうと思います」

 淡々とした回答に、和仁は静かに苛立った。

「では、神子がいなければ、私は永遠に答えを得られないままだということだな」
「きっと、そうでしょう」
「時朝」

 なぜ分かってくれないのかと、憤りを感じて和仁は振り返った。時朝は、室の小さな明かりだけに照らされるだけで、ほとんど影のようになっていて、表情は分からなかったが、きっといつも通りのすました顔をしているのだろうと勝手に想像し、和仁は、佇む従者を睨みつけた。

「お前はわがままだ。私よりも、ずっとわがままだ。私が神子を近くに置きたくない理由を分かっているだろう。あの者は、私と一緒にいることで、世の人間から後ろ指を差されるかもしれないのだ。私の存在は、彼女にとっては毒だ。私は、私自身が生きるために、神子を利用したくはないのだ」

 放つ言葉が、本当に花梨を思いやるからこそ生まれた気持ちなのか、それとも自身を庇護したいだけなのか、考えすぎて、今ではもう分からなかった。

「なぜ、和仁さまは、神子殿を苦しめることしかお考えにならないのですか」

 意外なことに、無口なはずの男は、すぐに反論した。その口調はいつになく強く、思わず和仁が言葉を失うほどだった。

「……」
「神子殿を遠ざけようとすることそのものは、あの方の体裁を考えてのことでしょうが、なぜ和仁さまは神子殿を安堵させたり喜ばせたりしようという努力をなさらないのですか。なぜ、全てが苦しめること前提なのですか。あなたには身体があり、心があり、表情があり、声があって、あれほど健気に和仁さまを慕う神子殿を、ほんの少しでも幸せにするための手段をお持ちなのに、どうして我々に与えてくれる喜びに対し、一度でも彼女に感謝をしたり、恩返しをしようという気持ちを持たれないのですか」

 それは、和仁に対する、時朝の怒りだった。普段から心に秘めていた主への不満なのだろう。情けないことに和仁は「怒られている」と感じて震えていた。以前の自分ならば、その恐怖を増大させないために喚き散らして、無理矢理にでも言葉を遮っていただろう。和仁のためを思うからこそ良心をもって咎めていたことにすら気づかずに、愚かにも尊い教訓をないがしろにしていただろう。
 反省からだろうか、和仁は言葉に詰まって何も返せなかった。時朝も、和仁の動揺は分かっている。だからこそ、彼は続けた。

「和仁さまは、神子殿が自分勝手にここを訪れ、時間を無駄に過ごしに来ているのだとおっしゃりますが、仮にそうだとしても、我々は、彼女の明るさや優しさに触れたことに対し、その想いが確かに嬉しいものであるのだと、少なからず感謝をしなければならないのではないでしょうか。あの方は、とても賢く思いやりのある女性です。遠ざけたいのならば、その感謝のうえで突き放さなければ、神子殿は分かってくれないと思います。和仁さまが神子殿に去ってほしいと本当に願っているのならば」

 最後の言葉は、和仁の本心をえぐり出そうとするためのものだ。時朝は、全て見抜いている。
 和仁は、時朝を見据えたまま悲痛な表情を浮かべた。

「もし私が罪人でないのならば、私は、彼女にそばにいてほしかった」

 そう告げた声は、かすれてしまっていた。自分でも悲しくなるほど弱々しい声だった。
 時朝は、静かに言い返した。

「罪人であっても、罪人でなくとも、神子殿は、和仁さまに寄り添おうとしたでしょう。
 あなたに道を示すためではなく、二人が道を探すために」

 その意味するところは、今の和仁には、よく分からなかった。